さよならロイ
旦那P助の親友のロイ(仮名)が3週間前にこの世を去った。
36歳という若さだった。
ロイのことは前にも書いた。
メキシコから帰ってきたはずなのに、連絡が取れないで数ヶ月が過ぎた。
P助は何度もメールや携帯にメッセージを送ったり、電話をかけたりしていたが、彼との連絡は全く取れなかった。
P助と私は連絡が取れない彼に少し苛立っていた。
それでも、便りのないのは元気な証拠と言い聞かせ、彼からの連絡をただひたすら待った。
P助がロイと再会する事ができたのは宣告から4ヵ月後の皮肉にもロイのお祖母さんのお葬式だった。
P助のお母さんとロイのお母さんは友達で小さい頃からとても親しくしていたらしい。
ロイは、まさかP助と再会すると夢にも思っていなかったのだろう、P助を見てびっくりしていたとP助は私に言った。
その3週間後にロイとP助はスビアコのスタジアムにシズンオフのフッティー(オーストラリアンフットボール)のエキシビションマッチを見に出かけた。
P助がロイと遊びに出かけたのはこれが最後だった。
大のフッティーファンで、これが今年最後の試合。
二人とも大興奮だったらしい、客席も大いに盛り上がり、ビール片手に応援する二人。
若いと言っても、もう、この頃はあまり食べられなくなってきていたロイは、試合後半は疲労の影が見え、帰り際に膝丈のベンチシートを乗り越える事ができず転んでしまった。
この事をP助は今でも悔やんでいる。
ゲームの2週間後にパース市内の公立病院にロイは入院した。
もう、加療目的ではなく、苦痛の緩和が目的だった。
彼のがんは背骨にまで転移しており、その苦痛はそうとうなものだっただろう。
脊髄への麻酔と同時に麻薬も使用された。
P助は毎日仕事が終わると彼が入院している病院へ行き、数時間をそこで過ごした。
私はお見舞いに行かなかった。
ロイの苦痛はひどく、もう普通に話もできる状態ではなかったし、苦痛を感じないように意識レベルを下げる薬も使用された。
意識が少しずつ戻ってくると同時に痛みを訴えるロイ。
彼がそんな姿を誰にも見られたくないということを私自身十分に承知していた。
私の母もそうだったから。
彼が静かに息を引き取った木曜日の朝。
目覚ましよりも早くP助の携帯がなった日。
1週間前にロイの葬儀が行われた。
P助は葬儀で流す音楽の作成をロイのお母さんから頼まれた。
私は風邪を引いていたので、ロイの葬儀にも行く事ができなかった。
彼は葬儀の後、火葬されて、その遺灰はお墓に埋葬されることなく、彼がこよなく愛したアルバニーにある山の頂上に撒かれるらしい。
墓標も墓石ももつことなく、ただ、自然に帰る事を望んだロイ。
彼らしいと思った。
私が今でも心に描くロイは元気に笑っている、少しシャイな彼だ。
これからもずっと。
安らかに眠ってください。
けい
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